“鞆の浦 新たなる発見”について福山市鞆の浦歴史民俗資料館のブログの説明での疑問
江戸時代鞆の保命酒屋であった中村家の文書の調査から,この「感応」を書いた西嶽が朝鮮通信使の一行で来日した人物と判明しました
特別展「善隣友好 朝鮮通信使」開催中
“西嶽”という名前なのか、号なのか、字なのかについて検索したら、以下の人物を見つけた。
畠中西嶽の「黎明富士図」
畠中西嶽は、文化年間(1804年~1817年)に活躍した書家
定本 焼絵考:日本・中国・韓国・ロシア・インドネシアの焼絵 著者: 田部隆幸
“畠中西嶽”でgoogle検索しても、googlebooksのこの情報しか見つからず、 畠中西嶽について調べたくなった。また、日本で奉納された扁額はそのお寺や神社になじみのある人物を単純に考えてしまうが、たまにくる朝鮮通信使の人物のものをありがたく飾るものなのだろうかという疑問があるため。
日本のお寺や神社にも歴史があり、足しげく通ったり懇意にする人物が居てもおかしくないはずだが、外国の有名人にサインを貰う感じが江戸時代にもあっただけなのだろうか。
“鞆の浦 新たなる発見”について調査するため行ってみたい場所
福山市鞆の浦歴史民俗資料館(住所 〒720-0202 広島県福山市鞆町536−1)
“鞆の浦 新たなる発見”について検証する上で、読んでみたい論文や古典籍、書籍の資料
鞆における新発見の朝鮮通信使関係史料(園尾 裕)
定本 焼絵考:日本・中国・韓国・ロシア・インドネシアの焼絵 誠文堂新光社 著者: 田部隆幸


