松前藩受領の徳川家康の黒印状について
大正7年(1918)の「北海道史」という書籍で紹介され以後所在不明が、平成になってなぜか見つかったというものがある。
慶長9(1604)年1月27日付け。将軍徳川家康が松前志摩守(松前慶広)へ与えた黒印状。松前氏の対アイヌ民族交易の独占を認め、一方でアイヌ民族の行動は全く自由であることを明記している。
徳川家康黒印状 北海道博物館
そもそも、くずし字、読み下し文を読んでも徳川家康の黒印状には”夷仁”、”夷”とあるだけで、「アイヌ民族」などの文言はどこにも記載されていないと思うがどこで判断するのだろうか?
蝦夷風俗彙纂には「アイヌの行動の自由」とされる附言がない?
北方資料データベースにある肥塚貴正が編纂した蝦夷風俗彙纂には、北海道博物館にある徳川家康黒印状とされるものにある”付、夷之儀者、何方へ往行候共可致夷次第事”という文言自体がないように見えます。
また、黒印状ではなく御朱印と朱印状として記載されている。
蝦夷随筆では直接売買してはいけない対象と、行動の自由にしてよい対象が同一の人達とは読めない?
坂倉源次郎の蝦夷随筆を見ると、直接売買してはいけない相手は”夷人”で、移動の自由なの対象は”蝦夷人”と記載されているように見えます。(左頁2,4行目あたり)私には1条目は”対蝦夷人”とは読めないのでもう少し解像度の高い画像とかでみたいです。
蝦夷人=夷人で、ただ”蝦”の記載がないだけなのでしょうか?
国文学研究資料館のくずし字でない蝦夷随筆(5コマ目左頁最後行あたりから)はなぜか”対蝦夷人”と”蝦”が追加されています。
どちらが先に書かれたものかなども検証したいですね。
この売買と移動の自由の対象が別かは定かでないですが、アイヌとされる人達の中で、本邦の女服に陣羽織を着る人物など明らかに他の人と違う絵が残っていたりするのでそのあたりの疑問も別記事で取り上げたい。
大正時代に北海道庁出版の北海道史が改竄されてるという勘違いを修正したい。
古典籍によって徳川家康の黒印状もしくは朱印状に記載の条文が違っていて、なぜ一時的に所在が不明になっていたものが真となるのか私には理解できませんでした。
国立国会図書館デジタルコレクションで電子化(2008年3月31日)されている北海道史76コマの左頁に徳川家康の黒印状と右ページのくずし字を漢文等で読めるようにしたあたり、また次のページ含め改ざん、捏造されているという私の勘違いは2022/6/19時点では解消することができませんでした。
引続きアイヌの行動の自由を明記したという徳川家康の黒印状について検証したいと思います。
アイキャッチ画像の出典の詳細情報と加工について
出典:北海道史. 第1
タイトル 北海道史. 第1 著者 北海道庁 編 出版者 北海道庁 出版年月日 大正7-8
「国立国会図書館デジタルコレクション」に収録されているデジタル化資料のうち、個々の画像の書誌情報の公開範囲の記載が「インターネット公開(保護期間満了)」となっているもの
アイキャッチ画像は上記を利用しています。