朝鮮通信使とされる崔天宗の表記ゆれについて正しい名前は?
wikipediaの解説だと崔天悰や崔天崇など名前に表記ゆれがある。
対馬様へ三使より書状之文(崔天宗殺害の罪人探し出し殺しくださるべくにつき書状)(加藤家文書 62-16-574 亀山市史編さん歴史合同部会・亀山市・亀山市歴史博物館)の3行目を見ると崔天”宗”と読み取れる。
九条島と朝鮮通信使の碑の記述によると
また、1764(宝暦14)年の使節 団とともに来日し、不幸にも大坂の地で事件 に巻き込まれた通訳の崔天宗、発病して帰ら ぬ人となった随員の金漢重の二人も同寺で手 厚く供養されました。」 と書かれてあります
九条島と朝鮮通信使の碑
2021/1/10時点で調べた限りでは崔天宗と宗の字が正しいように思われる。
崔天宗が本当の名前だとしたら、李氏朝鮮の国王の廟号との関係で問題にならなかったのか?
廟号として祖や宗が使われた名前が李氏朝鮮の国王につけられるが、崔天宗という名前の付け方に問題なかったのか?
江戸時代、李氏朝鮮とのあいだでは朝鮮通信使による国書の往来が行われていた。正徳度には日本の国書が中宗の諱「懌」を犯したと朝鮮側からの抗議が行われた。新井白石は朝鮮側の国書も「光」(徳川家光)字を犯しているとし、国書の訂正を受け入れなかったため論争となった(国諱論争)。
避諱
避諱(へき)では国の間でも問題になったりしたが、李氏朝鮮では廟号に関して問題なかったのか。
朝鮮通信使の登場人物は史実なのか?
この事件は明和元年(1764年)、大阪の北の御堂の旅館で、対馬の通辞役鈴木伝蔵が、来日中の朝鮮通信使の随行員崔天悰を殺害したものである。正使は超儼と称し、
唐人殺し
宝暦14年(明和元年)徳川家治(いえはる)の将軍就任祝賀の朝鮮通信使を宗義暢が江戸までおくったとされる正使、副使、従事官は一体誰だったのか?の記事で取り上げたが、朝鮮通信使の正使など人物構成に疑義がある。
唐人殺しの時系列は合っているのか?
実暦奇聞『唐人殺し』/85 大正6年米山堂から出版された田中貢太郎の著書、奇話哀話に唐人殺しというものが掲載されている。崔天宗という名前がでてくるが、本当に江戸時代、明和元年の朝鮮通信使殺害事件があってのこの書籍なのか?
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著者 田中貢太郎 著 出版者 米山堂 出版年月日 大正6
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