初めに

北山殿行幸記に関連した検証ブログ記事作成のための備忘録

北山殿行幸記/514 足利義満 群書類従. 第貳輯 著者 塙保己一 編 出版社 経済雑誌社 出版年月日1898-1902 2版 インターネット公開(保護期間満了) 備忘録
出典:北山殿行幸記/514 群書類従. 第貳輯
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北山殿行幸記の疑問について検証するためのメモ書き

国立国会図書館デジタルコレクション

群書類従. 第貳輯を出典とする塙保己一 編、経済雑誌社出版の262コマ目から北山殿行幸記/514

フォントの種類は舊本行書躰と記載されている

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879729/235

群書類従(新校. 第二巻 著者 内外書籍株式会社 出版者 内外書籍)の北山殿行幸記について昭和初期の出版であればフォント交換など手動で行いそうなタイプライターを使っていたのではないかと思うが、同じページでフォントの書体が違う箇所がある。

また、書籍をスキャンしただけにしては、上下の余白が他のページと違い不自然なページがいくつかある。ただ単に分厚い本をスキャンしたらこんなものなのか、それとも印刷ミスとかそういうのなのだろうか。

北山殿行幸記のわか君について

わか君はことし十五にならせおはしますにや。

新校群書類従 巻第三十九 北山殿行幸記 230コマ目 左ページ下
国立国会図書館デジタルコレクション

これははや五位のかうぶりをさづけ申されたるゆへに、

新校群書類従 巻第三十九 北山殿行幸記 230コマ目 左ページ下
国立国会図書館デジタルコレクション

そのつぎに大もんのでうをしきて、わか君の御座とす。

新校群書類従 巻第三十九 北山殿行幸記 232コマ目 右ページ下
国立国会図書館デジタルコレクション

北山殿行幸記の作者、成恩寺関白で一条経嗣からみて足利義満があるじ(自分のという意味ではなく、北山殿のあるじという意味?)、足利義嗣がわか君ということでいいんだろうか。

また、従五位あたりで大紋高麗縁を御座としているのは、足利義満の子だからとかなのか?、他でもそうだが、畳の縁で身分を決めたというわりには、おおざっぱすぎないか?とも感じるが、それだけ足利義満に力があったということなんだろうか。

足利義満が繧繝縁の畳だったのは、義満は天皇の義父と言える存在(こちらは理由としては違う気もするが・・・)だからなのか准三宮を与えられたからなのか?

足利義満の繧繝縁についても疑問をもっていてこれについても、証拠集めをさらにしていきたい。

畳の読み方が歴史的仮名遣い「でふ」ではなく「でう」と記載されていることについては、大阪毎日新聞と、群書類従を出版した経済雑誌社や内外書籍株式会社とどのような関係だったのかについての覚書で取り上げている。

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出典:北山殿行幸記/514

群書類従. 第貳輯 著者 塙保己一 編 出版社 経済雑誌社 出版年月日1898-1902 2版 インターネット公開(保護期間満了)

国立国会図書館デジタルコレクション」に収録されているデジタル化資料のうち、個々の画像の書誌情報の公開範囲の記載が「インターネット公開(保護期間満了)」となっているもの

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出典についての簡単な解説 北山殿行幸記は仮名日記として、リンク先のページをみると旧字体で成恩寺關白經嗣公(成恩寺関白経嗣公、一条経嗣)と著者名が記載されている。

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