聚楽行幸記の開催日数についての疑問を検証するためのメモ書き
私の古典のレベルだと、「三日間は短くて心残りが多かった。せめて五日間は必要」みたいに読めるところがあるが、5日間開催されたことになっている。また、三日目十六日、四日め十七日、五日め十八日と日付記載はむりやり後から付き足したようにも感じる。
古典籍、くずし字の勉強をしてさらに理解力を増したい。
しかし、以下の解説では豊臣秀吉の命により、聚楽第行幸の開催を三日間から五日間に延長されたとなっており、こちらに関して出典は何かわからなかったので調査する。
〔4月15日〕当初は3日間の予定であった行幸は秀吉の願いにより、5日間に延期されました。
「聚楽第行幸」について
富山県にある高岡市立博物館の投稿に「学芸ノート 【第9回】 高岡御車山のルーツ!?『聚楽行幸記』」というタイトルで、聚楽第行幸で開催された5日間の日程の解説をしている。
しかし、世に普及した『群書類従』の内題や奥書(元和2年(1616)、釣閑斎卜諳筆)には大村由己の名は出てきておらず、楠長諳(楠木正虎)が作者のような書き方がしてあるので、『聚楽行幸記』は長らく、長諳の著作物であるとの誤解を受けていました。おそらく昭和12年(1937)に講演発表(同14年論文)をした桑田忠親氏の研究(10)まで大村由己が真の著者だという理解がなかったものと思われます。桑田氏はその中で、「卜諳の元和二年に於ける奥書によつて捏造したとも見られるのであつて、何れにせよ、釣閑斎卜諳こそ後人を誤らしめた最初の人と云つてよからう」と厳しく指摘しています。
大村由己著『聚楽行幸記』の伝来について
国立国会図書館デジタルコレクションの國學院雜誌 = The Journal of Kokugakuin University. 45(5)(537)に(10)桑田忠親「聚楽行幸記の研究」(『國学院雑誌』昭和14年5月号)の記載があるが、公開範囲が国立国会図書館/図書館送信参加館内公開(著作権保護等による)のため、内容をネット上で確認できていない。
新日本古典籍総合データベースの聚楽亭行幸記 (じゅらくていぎょうこうき)でこちらは、大村由己が著者とされている写しのようです。
後陽成天皇が豊臣秀吉の聚楽第行幸の際に詠んだ和歌の日にちは?
豊臣秀吉の時に行われた後陽成天皇の聚楽第行幸の日程が5日間について改ざん・捏造されているのではないか?と引き続き天正十六年四月に行われた聚楽第行幸の記録に関連するものを調べていました。
そこで、松平家忠という室町時代(戦国時代)の武将の生活や有力大名についてのことを日記形式で書いた貴重な史料を知りました。最近では、「本学図書館所蔵『松平家忠日記』が国の重要文化財に決定しました」という駒澤大学図書館所蔵の家忠日記が重要文化財として認定されたようです。
いつものように、国立国会図書館デジタルコレクションで検索すると「家忠日記. 第4 著者 松平家忠 著[他] 出版者 吉川半七 出版年月日 明30.11 シリーズ名 文科大学史誌叢書」が見つかりましたが、くずし字のため、私の古典読みのレベルではまだまだ簡単に読めるまでは行きません。
ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)が提供するくずし字認識ビューアで家忠日記を解析しつつ、現代語訳もないかと探しているとgooブログでかさぶた日録を運営している方が、わかりやすく解説している記事を見つけました。
去る十五日、聚楽にて、禁裏様遊され候。
わきて今日 待つ甲斐あれや 松が枝の 世ゝの契りを かけて見せつゝ
「家忠日記 五」を読む 18
現代語訳までではありませんが、文語文、口語文?の状態は非常に助かります。国立国会図書館デジタルコレクションやくずし字ビューアでも確認しましたが、後陽成天皇(禁裏様)が15日(聚楽第行幸の二日目)に和歌を詠んでいたように読めます。
しかし、国立国会図書館デジタルコレクションなどにある群書類従等を読むと聚楽第行幸の開催日は5日間となっており、16日に和歌が行われ、gooブログでかさぶた日録で先ほど引用した和歌も16日に詠まれたかのような編集がされています。
東京大学史料編纂所の史料稿本も同じように編集されています。29コマ目、群書類従にもある3日目16日という記載がある。
学校でまったく古典を勉強せず、令和2年の大人になってから学習し始めたものが、古典籍をつまむだけで聚楽第行幸記の5日間開催の記述に改ざん、捏造の疑問があるなと感じるのに、なぜこのあたりが問題ないかのようになっているのだろうか?
聚楽行幸記を題材にくずし字認識ビューアで古典籍を学ぶ
ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)が提供するくずし字認識ビューアを利用すると、IIIFというフォーマットに対応している古典籍をAI(機械学習)によってくずし字をある程度認識でき、古典のくずし字が読めないからと、古典の勉強をやめるまえに、試しに使ってみると楽しいかもしれません。
天正16年の聚楽第行幸(豊臣秀吉)の疑問一覧
- 豊臣秀吉が当初三日間だった、聚楽第行幸を5日間と願い出たとする出典は?また願い出たタイミングはいつか?
- 足利義満(北山殿)や足利義教(室町殿)から行幸が久しぶりで、準備不足みたいで豊臣秀吉が恥かかされたように見えるが、誰かを処罰せず何事もなく秀吉は、延期を願い出たのか?
- 4日目に行われたとされる舞御覧について、朝日新聞関連が提供するコトバンクで確認すると正月(1月)の新年の月に行われる行事となっているが、行幸の際にも舞御覧は行われたのか?
- 天正20年1月26日から28日まで2度目の聚楽第行幸について、聚楽第行幸記には3日間では少ないせめて5日間にすべきと後のためにもということが記載されているのに、なぜ3日間しか行幸を行わなかったのか?(前回が5日間(当初は3日間の予定が5日間に延長)に対し、この行幸は3日間です 聚楽第関連年表より)
- 後陽成天皇の和歌を詠んだ日が聚楽第行幸二日目と読める家忠日記があるが、群書類従などを見ると聚楽第行幸の3日目16日で行われているような編集となっているが、矛盾しないのか?
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出典:卷第四十一 ・ 聚樂第行幸記/468 群書類従 : 新校. 第二巻
著者 内外書籍株式会社 編 出版社 内外書籍 1931-1937 インターネット公開(保護期間満了)
「国立国会図書館デジタルコレクション」に収録されているデジタル化資料のうち、個々の画像の書誌情報の公開範囲の記載が「インターネット公開(保護期間満了)」となっているもの
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