なぜ皆さんは、ねね坐像(高台院)とされる木像を見て、ねねだと思ったのか?
霊屋(重要文化財)
秀吉とねねを祀った建物で、ねねが埋葬された場所です。須弥壇や厨子に壮麗な蒔絵が施されていますが、これは「高台寺蒔絵」と呼ばれ、桃山時代の漆工芸の粋を集めたものになります。
高台寺 | 京都春秋 出典よりねね像に焦点を合した
お恥ずかしいことに、大人になってからも歴史の勉強をしていた時があるのに、ねね木造坐像があるというのを知りませんでした。普段展示会とか行かないからでしょうか。
SNS上でとある大河ドラマの作法などが話題となっていて、その流れで気になった事を調べていたら、古いねね木造坐像と修復されてしまったねね坐像があることを知りました。一から作り直したのか、塗りなおしなどの修復だけなのかは把握できていません。
私は、見た瞬間になぜこれが「ねね木造坐像(高台院)」なんだろうと疑問に感じましたが、直接展示会や高台寺に足を運んで「ねね木造坐像(高台院)」を見た方は疑問に思わなかったんでしょうか?
袖頭巾や尼頭巾と呼ばれるものだと思われるのですが、ここだけ木像ではなくただの布をかぶせているように見えます。
豊臣秀吉の遺品(形見の品)はメディアで取り上げられるのに、ねね木造坐像の袖頭巾や尼頭巾の遺品や形見の品の話って有名なんでしょうか?
メディアが豊臣秀吉の遺品などについてテレビ番組や新聞、ネット記事等で紹介されているのを何度か目にした機会があったと思いますが、ねね(高台院)の遺品って取り上げられていたのでしょうか?、豊臣秀吉とねねはワンセットで番組で紹介されたりしたら、ねねの遺品も紹介されてもおかしくないと思うのですが。
こういう木像坐像などを作られた際に芸術として、遺品や形見の品を身に着けたりさせるものがありそうなので、ねね坐像もわざわざ袖頭巾や尼頭巾を木造で作っていないなら、形見の品や遺品を使っていてもよさそうですが、パッと見たところ年季の入ったものではなく、新品の布に見えます。
しかし、メディアなどでねね(高台院)の遺品や形見を取り上げられているのを見たことがないし、ネットで検索してもわかりませんでした。
いくつかネットの画像からでも高台院座像の全体像を確認できるが、木像なのに、頭巾は実際の布に見える。ねねの形見の頭巾という話を聞いたことがないし、画像で見た限りは真新しい。
高台寺の霊屋室中特別公開を見に行った方のつぶやきによると、ねね木像の尼頭巾は布のようだ。
こういう木像をつくったりすると遺品をデザインの一つとして、表現するのはありそうだが、ねね木造坐像がある場所には、ねねの頭巾の形見が丁重に保存されていたりするのだろうか?
また、繧繝縁と思われる畳を模した台座の大きさが、お互い同じように作られていないように見えるし、豊臣秀吉坐像とねね(高台院)坐像を見比べると繧繝縁の畳のような台座のうえにさらに少し高くなっているのは茵と思われる座布団だと思うがなぜ、豊臣秀吉坐像にはなくねね(高台院)坐像だけあるのだろうか。頭巾をとったら実はねね坐像ではなかったというのは考えすぎだろうか。
ねね坐像と豊臣秀吉坐像はいつ作られたのか?
高台寺には妻ねねが晩年に作らせた秀吉の顔を忠実に写したとされる木像がある。
約400年前!妻ねねが晩年に作らせた秀吉の顔を忠実に写したとされる木像
高台寺は ねねが秀吉を弔うために慶長年(1606)に開いた 秀吉像は 高さ約60cm ねね像は高さ約50cmの木像で 寺の創建とほぼ同時に作られたとみられる
ねねと秀吉 よみがえる愛 400年前制作 座像修復-高台寺
桃山時代、江戸時代初期あたりのようだが、秀吉座像、ねね座像ともに出典調査中。
ねね坐像(高台院)は右足立て膝をしているのに、胡跪(こき)をしていると主張している人たちがいた。
女性の立て膝やあぐらなど色んな座り方をしていたかもしれない事について可能性は否定しません。ですが、すみません。立て膝に作法があるとして、右足立て膝ですか?左足立て膝どちらなんでしょうか?
個人的にはねね坐像(高台院)とされている像が右足だったから仕方なく、右足立て膝の肖像画を作らざるをえなかっただけだと疑問を思っています。(戦国時代の話ではありません。)
全部調べきれたわけではありませんが、2014年時点で右足で立て膝をする姿を胡跪(こき)といって座り方について述べられている方がいるようでした。
ねね像は インドの礼法で片膝を立てて座る胡跪(こき)の姿をしており
優しい表情を浮かべている
秀吉 と ねね 時超え仲むつまじく 座像展示 / 光で描く秀吉の夢 2013年03月08日
2013年時点でも
本願寺では胡跪ではなく「䠒跪(こき)」とわざわざ「䠒」を画像にして説明していた。関係性は全くないのだろうか。
䠒跪
正座の姿勢から左ひざを立て、上体をまっすぐに保って座った姿勢。無量寿経作法・観無量寿経作法において、導師が礼盤上で行う座法。
一般作法―勤式指導所―浄土真宗本願寺派
なぜか、䠒(足偏に胡)の漢字だけ画像が貼り付けられています。文字コードはhtmlのソースを見るとUTF-8となっているので、文字表示ができないわけではなさそうです。
いつからこの状態だったのか調べられないかと、webarchiveで検索すると、同じように疑問に持った人なのかわからないが、2015年時点の状態も確認できた。これがわかるのはその時点ではアーカイブとして保存したというだけで、もっと前からこの状態だった可能性もあるがわからない。
2015年12月の時点でも、「䠒」の文字のみ画像だったようだ。
2015年よりも前かで何かこのホームページの情報を検索されたくない、見られたくないとかあったのだろうか?
それともたまたま漢字が見つけられなくて、わざわざ画像を用意したのだろうか?ニュース記事では、例えば「足偏に胡」と注釈いれるようなのは見たことがあるけど。環境依存文字とかでわざわざ画像を用意してとかなだけなんだろうか。
京都市下京区にある西本願寺のホームページ(勤式指導所の作法と荘厳)に関しては「平座・平坐(へいざ/読み)になぜ「あぐらをかくこと」という座り方の意味が含まれているのか検証する。」のブログ記事でも取り上げています。
胡跪(こき)についてねね座像(高台院坐像)の座り方と逆の説明をしているものもあるが、複数「胡跪」の座り方があるのだろうか。
座法の一つ。現行の胡跪の座法は、右膝を地に着けた姿勢で左膝を立てる。元来は胡国の人の跪拝・座法の意
こき/胡跪
新纂浄土宗大辞典について
インドの礼法とされ、左右の膝を交互に地につけて跪くこと。右膝を地に着け左膝を立てることを胡跪というが、長時間続けて疲れると左膝を地に着け右膝を立てて跪くことから互跪という
ごき/互跪
この足偏をつけない胡跪(こき)の座り方について、膝を地につけるとは記載があるが、立て膝をしつつ膝を地につける側の足はお尻をかかとにつける正座のかたちなのか、それともお尻をかかとにつけないのだろうか。それによって座り方が全く違うが?実際にどう座るのか調査する必要がある。
胡跪(こき)は左足立て膝で高台院(ねね)坐像やSNS上でつぶやている方々の説明と矛盾しているように感じる。別の”胡跪(こき)”という座り方の作法があるのだろうか。ただ、互跪という立て膝の足を逆にすることもあるらしい。それは身分のある人の作法なのだろうか。
個人的には、字を書くのも学ばなかったり作法もないであろう身分の低い庶民ならまだしも、立て膝つきながら文とか書いてたの?とか疑問があるが、別記事で取り上げる。秀吉ならわかるが、ねねも?とかいろいろ突っ込みどころはあるので、女だからではなく家柄はねねのほうがいいとこだった記憶があるのでそのあたりの視点などから検証したい。
辞書横断検索と思われるコトバンクでも胡跪の解説の注釈としてわざわざ「䠒」を画像で表示している。
胡と䠒の違いのひとつにJIS第2水準に含まれていないというのがあるが、
本願寺のホームページ、コトバンクともにUTF-8の文字コード設定になっているので「䠒」を表示できるし、本願寺のホームページはまだしも、コトバンクは辞書としての役割があるなら断り書きとかいれないのだろうか。
コトバンクは辞書なので「䠒跪」で検索してみたが一致する結果はなかった。
また、コトバンクでは「胡跪(読み)こき」の形でページがあるが、注釈でわざわざ東山往来(1092‐1107頃)を引用しているのに、「䠒」を画像にし、「胡」「䠒」についてなぜ違うのかなどの注釈がない。
木造太田道灌坐像附厨子1基の顔に尼頭巾を被せたとしても
例えば、木造太田道灌坐像附厨子1基という座像、彩色された色などで判断されてしまうかもしれませんが、尼頭巾をかけてしまえば判断つかないのではないでしょうか。彩色される前がどんな感じだったのか知りたい。
胎内に納入されていた銘札によると、元禄8年(1695)静勝寺第6世の風全恵薫によって造立され、以後、6回の修復が施されました。現在の彩色は、昭和62年(1987)4月に行われた修復によるものです。
木造太田道灌坐像附厨子1基
木造太田道灌坐像附厨子1基についても別記事で取り上げたい。
秀吉とねねの霊廟「霊屋(おたまや)」は国指定重要文化財に指定されているが、二人の坐像は文化財に指定されているのか?
豊臣秀吉坐像と寧々座像を含めて国指定重要文化財なんだろうか、それとも霊廟、霊屋(おたまや)だけなのだろうか。調査中
ねね木造坐像(高台院)疑問のまとめ
ネットだけでは調査しきれないこともあるので、実際に現地に足を運んだりして検証したいです。修復前のねね木造坐像も残っているといいのですが。今のペンキで塗りたくったような色使いのがそれなのだろうか?