黒田孝高の官位が従三位になったのは官報を読むと明治時代になってからである。
明治35年(1902年)11月13日 、従三位を追贈された[14]。
^ 『官報』第5812号「叙任及辞令」1902年11月17日
黒田孝高 wikipedia
wikipediaで黒田孝高の生涯(晩年と葬儀)の最後の行を参照すると、明治35年に官報の叙任及辞令として従三位を追贈されたと記載されている。
最近よくお世話になっている国立国会図書館デジタルコレクションで上記引用の「官報 第5812号 叙任及辞令」について調べると以下のリンク先が見つかった。
大蔵省印刷局が作成、日本マイクロ写真が出版となっているタイトル「官報. 1902年11月17日」の1コマ目(21コマ中)の下段中ごろを読むと、故従五位下 黒田孝高に対して贈従三位(明治三五年十一月十三日)と記載されている。
いくつかある黒田孝高の肖像画の畳の縁が小紋高麗縁になっていると思われる
まとめて黒田官兵衛(如水)の肖像画を紹介されているブログがあったので、参考にさせて頂きました。
上記ブログの肖像画だけでは畳の縁がわかりずらいのもあるので、同じものと思われるものを掲載
wikipediaの肖像画の説明には如水居士画像(崇福寺蔵)と記載
亡くなった直後に描かれたとあるが、その時点では官報によると故従五位下であり、小紋高麗縁の条件である公卿の身分ではなかったはずである。四位五位の殿上人は紫縁とあるので、黒田官兵衛(黒田如水 / 黒田孝高)の肖像画に畳の縁を描くとしたら紫縁ではないのだろうか。
従三位(贈)の官位になったのは明治時代になってからなので、小紋高麗縁のような畳の縁が描かれたいくつかの黒田孝高像は明治時代以降に描かれたのではないか?また黒田官兵衛とされる見た目や服装、姿勢、道具や賛など捏造や改ざんが行われていないのか?さらなる検証が必要である。
畳の縁については「海人藻芥の「畳之事」についてのくずし字と現代語訳についての疑問を検証する」の記事でも取り上げた。
黒田官兵衛の肖像画について明治時代以降に捏造・改ざん・作成されたものではないのか検証するについての目標
黒田官兵衛(黒田如水 / 黒田孝高)の肖像画が明治時代以降に捏造・改ざん・作成されたものだと勘違いしている自身の考えが間違っていることを証明する。
アイキャッチ画像の出典の詳細情報と加工について
著者 大蔵省印刷局 [編] 出版者 日本マイクロ写真 出版年月日 明治35年
「国立国会図書館デジタルコレクション」に収録されているデジタル化資料のうち、個々の画像の書誌情報の公開範囲の記載が「インターネット公開(保護期間満了)」となっているもの
アイキャッチ画像は上記を基に利用し以下の加工を行っております。
- 焦点を黒田孝高の項目に合わせるため、全体から画像切り取り
- 注目する箇所を赤い線で示す。