初めに

松浦武四郎は本当に北海道に行ったのか?

松浦武四郎は本当に北海道に行ったのか?蝦夷島奇観や十勝日誌を読んだり比較したり 秦檍丸 氏家厚時写 万延1 [1860] アイノ
出典:蝦夷島奇観
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松浦武四郎の印象

松浦武四郎 - Wikipedia

2022/5/8時点では、ただの古物好きのおじさん。
コレクションもアイヌのではなく擦文文化以前のものではという疑問がある

その他、東西蝦夷山川地理取調図の北海道地名とされるのも、間宮林蔵や伊能忠敬の地図を元に、明治時代以降に誰かが後から松浦武四郎の業績としただけではないのか?などの疑問も。

現状は私のこの認識が間違っている事を正すべく松浦武四郎が関連するアイヌの古典籍等を読んでいます。

松浦武四郎が著者名で使用する「源弘」についての疑問

松浦武四郎は速筆(「松浦武四郎の石狩川踏査」1コマ目右側5行目あたり)らしいのですが、その理由は過去の蝦夷(北海道)に関する古典籍をそのまま現代風(松浦武四郎なので江戸時代あたり)に改変したものだからでは?という疑問があります。

松浦武四郎は例えば石狩日誌で「源の弘しるす」、「松浦竹四郎源弘著」とあり、諱が「弘」だったりの関係で書籍のペンネームとして使っているだけなのかもしれません。

実際にはあるのかもですが、

<安倍氏奥州>──蝦夷についての記述がある文書の空白期

北海道文献年表

こういう鎌倉時代以前に書かれた古典籍だったりしないのかなと。

松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ移住してきたといわれ、別書では、代々百姓で、父・桂祐の次男として生まれたとしている

松浦武四郎

松浦氏に嵯峨源氏の流れがみたいな事もあるようなので、ただ単に使ってただけかもしれません。それはそれでやっぱりご先祖の古典籍をもってたんでは?という疑問が生まれますが。

蝦夷漫画

「蝦夷漫画」はその図のほとんどを、武四郎よりも前に蝦夷地を調査し、アイヌ民族の暮らしを描いた村上島之允(秦檍麿)の「蝦夷島奇観」から引用しています

アイヌ文化のミニ百科事典「蝦夷漫画」

最近SNSだとパクリだトレースだと炎上するのを見受けられるが(最近のは最近のでパクリ元の宣伝ではと疑問がある)、蝦夷漫画と蝦夷島奇観を比較しただけでも松浦武四郎が北海道に行ったのかが疑問に感じる。
他の古典籍について事実だと確認できているんだろうか?

特集ドラマ 永遠のニシパ 北海道と名付けた男 松浦武四郎というのをNHKがテレビ放送?しているので時代考証等しっかりされているんだと思いますが。

蝦夷漫画の出版年は安政6年(1859)蝦夷島奇観は寛政2年(1800)写等を比較。蝦夷島奇観もさらに引用元があるかもしれないが未確認。

アツケシ首長エユトイといへるものの肖像?

蝦夷漫画

夷酋列像の一人、シモチ(失莫窒)とされる図。リンク先は夷酋列像の説明ページで描かれた人物の項を参照のこと。

夷酋列像 - Wikipedia

夷酋列像の構図自体もっと遡れる?

アイヌの身なりの説明が引用元の蝦夷島奇観にない?

第一番は本邦の女服に陣羽織を着し
第二番は(?)付を被たるなり
第三番はアツシヲ被たる図なり

蝦夷漫画 7コマ

となっているが、蝦夷漫画からはどの絵の説明になっているか把握できない。紋付かなとも思うが、削れていて読めない。

しかし、蝦夷島奇観で確認すると

C0012767 蝦夷島奇観 - 東京国立博物館 画像検索

着物の模様だけに囚われてて見直したら肌色の違いがあるような。下のリンクのヲンカミの図はそれほど色の違いないのでたまたま?(2022/5/28追記)

C0012766 蝦夷島奇観 - 東京国立博物館 画像検索

二か所ほど三人の図で蝦夷漫画にある説明通りと思われるものがある。集団の図でも衣服の違いが確認できる。

ただし、蝦夷島奇観には明らかに服装の違いが図で確認できるのに、身なりの説明がないように思える

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いくつか蝦夷島奇観を見たが、ぱっと見は蝦夷漫画にはある身なりの説明は見つけることができなかった。崩し字をもっと読めるようにしたい。

2022/5/28 会津藩唐太出陣絵巻でも本邦の女服を着用しているように見えるが、サイズとかも気になったメモ

エトロフ人男女の図?

蝦夷漫画
C0012854 蝦夷島奇観 - 東京国立博物館 画像検索

鍬形について

蝦夷漫画
C0012792 蝦夷島奇観 - 東京国立博物館 画像検索

錦を見るアイヌ女性?

山丹満州より錦・・・

蝦夷漫画 10コマ
C0012862 蝦夷島奇観 - 東京国立博物館 画像検索

アムラクル(百合草)について

蝦夷漫画 18コマ

C0012836 蝦夷島奇観 - 東京国立博物館 画像検索

織物と砂浜の図

蝦夷漫画
C0012789 蝦夷島奇観 - 東京国立博物館 画像検索
C0012791 蝦夷島奇観 - 東京国立博物館 画像検索

楽器を弾いている図

蝦夷漫画
C0012779 蝦夷島奇観 - 東京国立博物館 画像検索

こういうの決まった型だから、たまたま同じ構図になる?

近世蝦夷人物誌について

ネットで近世蝦夷人物誌の古典籍を見たかったが、探せなかった。しかし、同じように調べている人がいたのでとりあえず引用。

一方で、『人物誌』は、虚構性の高い文学作品であり、史料として扱うべきではないだろう。

松浦武四郎『近世蝦夷人物誌』とカラフトアイヌ

近世蝦夷人物誌を直接読めてないので、読む機会があれば確認する。

松浦武四郎が会ったとされるアイヌのマウカアイノの年齢は?

 探険家松浦武四郎の「十勝日誌」と開拓大判官松本十郎の「石狩十勝両河紀行」は、いずれも十勝内陸で、陣羽織に正装したアイヌの首長マウカアイノに接見したことが記されている

編集余録「マウカアイノ」

松浦武四郎の十勝日誌について、国立国会図書館デジタルコレクションで出版年月日を確認すると万延元年(1860)とあり

安政5年(1858)には,函館奉行の命を受けた松浦武四郎らが十勝川筋の状況を調査

豊頃町の歴史

最上徳内の蝦夷草紙について、函館市/函館市地域史料アーカイブで確認すると寛政二年(1790)とある

シヤルシヤムといふ所あり、此處にマウカアイノといふ乙名あり

蝦夷草紙  四附録

蝦夷草紙. 1-5 / 最上徳内 著の2巻5コマ目 マウカイノとある。

1790年の時点、乙名(長老、集団の代表・・・)ならこの時点で相当若い人物だったのか、または別人なのか。

十勝とエトロフ島の話では別人なんだろうか。

松浦武四郎が危篤の際に明治政府は従五位を贈ったのか?

三重県松阪市のホームページ、松浦武四郎記念館の記事頁に明治21年(1888)2月10日に亡くなったとあり、その次の行に明治政府からの贈位の一行が記載されている。

明治21年(1888年)、武四郎は4回目の大台ケ原登山を計画していたと言われていますが、2月10日、東京の神田五軒町にある自宅で脳溢血により亡くなりました。

 武四郎が危篤である知らせを聞いた明治政府は、特別に従五位の位を贈ります。

松浦武四郎記念館

『贈位諸賢事略』 – 明治元年(1868年)より明治43年(1911年)にかけて贈位された966名分を収録。丸山舎書籍部発行。

贈位諸賢伝
国立国会図書館デジタルコレクション

目次 18コマ(27頁) の左ページ上段
松浦答「源」源五郎、松浦定「源」八郎・・と松浦姓6名とも松浦武四郎とは違う人物のように見える。
贈位諸賢伝. 二の272コマ左ページから松浦姓が続く。

贈位諸賢事略は全員を網羅しているわけでなく、官報等他の資料で確認できるのだろうか?

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出典:蝦夷島奇観

タイトル 蝦夷島奇観 著者 秦檍丸 出版者 氏家厚時写 出版年月日 万延1 [1860]

国立国会図書館デジタルコレクション」に収録されているデジタル化資料のうち、個々の画像の書誌情報の公開範囲の記載が「インターネット公開(保護期間満了)」となっているもの

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2022/5/21 松浦武四郎への明治政府から贈従五位についての疑問を追加
2022/5/28 松浦竹四郎が自身の書籍の署名に「源弘」を使う場合の疑問を追加

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